当道場名の由来

『誠心塾』って名前だけを聞くと、新撰組っぽい!?

チョッピリ気張った感じの名前のようなイメージがありますよね。


正直、小生もこのネーミングの第一印象は、

些か怖い感じがしたのは事実です。(笑)


然し、由来を知ってから、感銘を受け、先代師匠に対して尊敬の念を抱くのでした。


先代師匠が、命名した誠心塾という名は、下記の理由からつけられました。


正気歌:廣瀬武夫さん(軍神と呼ばれた方らしい)の歌の一節から頂いたとの事です。


当塾の道場訓も、先代師匠が、それを元にし、志を、単純明快にして

作成したと教わりました。


正気歌とは・・・こちらになります。↓

正気歌 (作:廣瀬武夫)

 

死生有命不足論

 

 

鞠躬唯應酬至尊

 

 

奮躍赴難不辭死

 

 

慷慨就義日本魂

 

 

一世義烈赤穂里

 

 

三代忠勇楠氏門

 

 

憂憤投身薩摩海

 

 

從容就刑小塚原

 

 

或爲芳野廟前壁

 

 

遺烈千年見鏃痕

 

 

或爲菅家筑紫月

 

 

詞存忠愛不知冤 

 

 

可見正氣滿乾坤 

 

 

一氣存磅薄萬古

 

 

嗚呼正氣畢竟在誠字

 

 

呶呶何必要多言

 

 

誠哉誠哉斃不已

 

 

七生人間報國恩

   せいきのうた (ひろせたけお)
       

死生命あり論ずるに足らず、

しせいめいあり ろんずるに たらず


鞠躬唯応に至尊に酬ゆべし。

きくきゅう ただまさに しそんにこたふべし


奮躍難に赴きて死を辞せず、

ふんやく なんにおもむきて しをじせず


慷慨義に就く日本魂。

こうがい ぎにつく やまとだましい


一世の義烈赤穂の里、

いっせの ぎれつ あかほのさと


三代の忠勇楠氏の門。

さんだいの ちゅうゆう なんしのもん 


憂憤身を投ず薩摩の海、

ゆうがい みをとうず さつまのうみ


従容刑に就く小塚原。

しょうよう しにつく こづかはら


或は芳野廟前の壁と為り、

あるいは よしの びょうぜんの壁となり


遺烈千年鏃痕を見る。

いれつ せんさい ぞっこんをみる


或は菅家筑紫の月と為り

あるいは かんか つくしのつきとなり


詞忠愛を存して冤を知らず

ことば ちゅうあいをそんして えんをしらず


見る可し正気の乾坤に満つるを

みるべし せいきの けんこんにみつるを


一気磅薄して万古に存す

いっき はうはくして ばんこにそんす



嗚呼正気畢竟誠の字に在り

ああ せいきひっきょう せいのじにあり


呶呶何ぞ必ずしも多言を要せん

どうどう なんぞかならずしも たげんをようせん


誠なる哉誠なる哉斃れるて已まず

まことなるかな まことなるかな たおれてやまず


七度人間に生まれて国恩に報いん

ななたび じんかんにうまれて こくおんにむくいん



 

この色変えの(せい)を貫く志に因んで、先代師匠が、誠心塾と命名した。

 

また、この廣瀬武夫さんという方は、36歳という若さで戦死するのでした。

 

この方の素晴らしい人柄は、なんと、当時、敵軍である

ロシア軍によって葬儀をしてもらっているらしい...(;゚Д゚)

 

後世に『軍神』と呼ばれていても、

本人さまは、誰よりも平和的に生涯を送ったのでしょうね~。

 

先代師匠も、そんな慈愛に満ちた方でした。

 


(正気歌の全体概要一例)


人の生死は天命なければ論ずる必要はない 天を尊び深く感謝し酬いるべきである
勇んで難に向って死をかえりみず 正義の為に死するのが日本魂である
赤穂義士の義 正成、正季、正行の忠勇  西郷と月照は海に身を投じ
吉田松蔭、雲井龍雄は小塚原で刑死した 

楠正行は芳野の廟前で 鏃(やじり)を筆に変え書き残し戦死したが 

その心は今も残っている
菅原道真は流されても その言葉は忠愛に満ちており 天を怨むことなかった
こうした正気が天地に満ちて 万古に存している 

正気とはつまるところ「誠」の字である なにもくどくどいう必要はない

私はこの「誠」を守って倒れても倒れても 楠氏の七生報国を念願するものである。